わ・た・く・し

妄想と虚構の狭間。

2022年6月の戯言


私はずいぶん長い間、モグラのように暮らしている。ヒトの氣や邪氣にアテられるので、なるべくヒトには会わないようにしている。こんな仙人じみたモグラライフも、もうかれこれ40年は経つだろう。
下界では、どうやら相変わらずウィルスどもが一番の話題になっているらしい。人は死ぬ時はどんな状況でも死ぬ、死なない時は死なない。ほとんどの人は、この死の瞬間を操作できないし、それに怯えて日々を不安ばかりで過ごすのはナンセンスでは?と感じる。
死は常に私の隣にあるが、私は死んではいない。私の周囲では私同様ワクチンを打たない輩も、誰ひとり死んではいない。ほとんど罹患してもいない。
私は幼い頃から、死の恐怖よりも痛みの恐怖のほうが打ち勝つ。世間で立派と言われる人達でも、死の恐怖などということを言うが、私にはよくわからない。本当に、自分でも不思議なほど、死ぬことへの恐怖はない。この肉体は借り物、この私という意識も舞台装置の一部のようなもので、何かを味わって、そしてソラへ還る。(このソラという表現も苦肉の策。言語では表現できないもの)
ただ、今死んでは「しくじった」という気分がまだいくらか残るだろうとは感じる。まだこの地上で味わい尽くしていないと感じることがあるからだ。もう少々遊ぶがよろしい。






最近の私は人と関わると、サーカスに踊り子志望で入ったはずなのに、オーナーとの意思疎通に混線ありて、何故か空中ブランコの特訓をさせられている(え、え、え、高所恐怖症なのに!?)みたいな心情になる。それって必要?なんで?私自身の気持ちを優先して辞めればいいよね、なのに・・・・。
ここから進むか退くか。まぁ退くほうがいいよね、だって怪我したくないし、空中ブランコなんてしたくないし、落ちるの怖いし、痛いのやだし。

しかし人は、嫌だ嫌だと言いながら、自分でそういう現実を引き寄せている感も、ありやなしや。



私を踊り子で雇ってくれるところは、あるのだろうか。(嘆息)



誰かの声を聞きたい、ということはあるだろうか?
私にはほとんどない。声を聞くより側で温もりを感じたい。
特に男と女の場合、話すことはよりナンセンスで、話せば話すほど、互いの無理解は浮き彫りになる。
それでも大事なことを伝える時、やはり言語は最大の武器になり得る。
しかしそんなことよりも、やはり私は私の肌に触れてほしい。私の髪に触れてほしい。私の瞳を見てほしい。抑え難き熱情を私にぶつけてほしい。
今しか味わえないものを、ともに味わいたいのだ。

そうは言っても、どこか気怠い。男との逢瀬にも、今ひとつ気が乗らない。
逢いたいという男。せめて電話でもという男。おあずけをする私。まぁそれ自体も楽しいのだけれど。
問題はソコではない、ナニカ。
そのナニカを深掘りする関係に立ちはだかる深い沼。その沼の底の金塊にアクセスするのか、しないのか。
決めるのは私。いや、私ひとりではないのか。関係性は互いのもの。




時間や空間を超えて結ばれる物語もある。そんなふうに出会うのも素敵だ。
そんな相手ならば、声を聞きたい、とも願うだろう。
その声だけを頼りに、私との見えない赤い糸を手繰り寄せよう。

声が聞きたい。
私の名前を呼ぶ声。



私は自他ともに認める超絶ファザコンなのであるが、父に私の名前を呼ばれた記憶はもうない。
それは人生で一番残念なことだ。




これからの予定に頭が痛い。身がすくむ。


やはり人生では、意図せず曲芸修行などをやらされる時期があるらしい。
公私にわたって、しばらくはそんな時間が続きそう。

うううめんどくさいな。誰かに甘えたい。





諸君は、自我や自意識のない人間というものを見たことがあるか?

恐らくほとんどの人がないだろう。

ワンネス、ワンネスなどと世間では楽しげに言われているが、本当のワンネスになってしまったら、もう自我も自意識もなくなって、地上的には廃人なのだよ。

その姿は、特殊で、ほとんどの人達にとっては脅威でしかない。

瞑想というものは地上の自我を全て脱ぎ去る行為。

なにものでもないもの。

そのなにものでもないものは、地上の尺度ではつかみどころもない。


もはや肉体がただあるだけでしかないその人は、本当に不可解な存在のように映る。

記憶すらもなくなる。




特殊性ということが、私の人生のテーマでもあるらしい。




6月は昼夜逆転してしまった日が数日あって、丑満時に近所を徘徊することがあった。清々しい深夜の散歩。ひっそりと、ひとひとりいない通り。見慣れた通りが違う地図のように浮き上がる。
私は墓所が好きである。
そんな時間に墓の前を歩いていると、マダムシェリーを思い出す。
彼女の描くモンスターは真に清純で美しい。
小説「フランケンシュタイン」の美しさを知る人は少ない。
ヒトの欲と都合で産み出された醜悪な命は、ヒトが持ち得ない無邪気さと稚拙なひたむきさで生きた。
その心情が烈々と語られる後半は、涙なしには読めない。
これほどの感動を文章として創り出せた彼女の周りには、常に死と痛みとが存在していた。



私に「声」を届けると約束してくれた人があった。
7月にはその声が届くであろうか。
癒しへの1ミリの願いをかけて、私は「声」を待つ。

 



歳よりは若く見られ、これといったシミや皺もなく、一際美しいプラーナを持つ私でも、やはり加齢には勝てないと思うところがいくつかはある。
人は、鏡の中の反転する嘘の世界に、自己の実存を求めて、その世界に見入る。私も私の存在を見ようと鏡の中を覗く。私は愛されているのか。なぜ愛されているのかを問うのか。愛されていようといまいと、私自身の存在には、なにも変わりはないのに。
男たちはこのうなじに口づけをして愛を囁く。でも、その声は私には聞こえない。私はなにか他のことに夢中になっていて、彼らの声は私の内側には届かない。それは虫の声。小さく鈍く、その場に調和して、私が気づくより前に季節は変わり、虫たちはもうそこにはいない。はじめからなにもなかったかのように。そしてまた新しい季節が巡る。こうした時間のカラクリの中で私の人生は進行している。



相変わらずなににも共鳴できない。