わ・た・く・し

妄想と虚構の狭間。

ありえないこと

 

私はほぼ毎日日記をつけているのだが、創作ノートや研究ノートなど、別々に分けているのが面倒になって、いつからか一冊のノートに全てを書くようになった。

 

夢のお告げ、チャネリング、思いついたアイディア、企画、やりたいこと、詩や小説や戯曲や散文、舞台装置の構造、とりとめのないこと、感情的なこと、エネルギーの状態、今日の予定、何を食べるとか、誰に会ったとか、SEXのことや男のこと、その日の天気、勉強したこと、気になっていること、過去のトラウマ、本や映画の感想、旅行の計画、哲学的考察、今後の仕事の展望、買いものリスト、お金の計算、絵や落書きも、なんでも書いていた。レオナルド・ダ・ヴィンチの如く。

 

家で書くだけではなく、外で書くこともあるから、数冊のノートを持って出かけることも多い。いくつかのノートに断片的に書いてあるものなどを、一つの作品として推敲する場合もあるから、直近の3冊くらいは携帯することがあるのだ。

 

今日、なんと、そのうちの1冊が紛失していることに気がついた!!

 

私は占術の研究もしているのであるが、最近いろいろ考えることもあって、あらためて自分の命式を深く見直し、いろいろな角度から自分を分析した。複数の占術を組み合わせて、かなり高度に読み解いてみた。そのノートがないのである。自分自身についての分析もだが、いつものように阿保みたいに、いろいろなことが赤裸々に、惜しげもなく書いてある。そして、今後の展望の一つとして、自分の露出について、どんな形を取ろうかと、通り名を変えようかとか、いくつか名前の案も出していた。

自分の名前、そこから少しもじってこんな名前、否、昔のペンネームが良かったか、昔の占術師時代の名はどうか、昔の地下アイドル時代の名前ならどうか、それともこんなのはどうだろう、など。ツラツラと書き出してある。

そんなノートをどこかに忘れてきてしまったのだ!!

 

外で書く場所といえば3カ所しかない。うち2カ所は私がどこの誰某さんと、素性を知っているわけではないし、個人的な関係などないが、定期的に行っているから、私は馴染みの人である。私を私と認識している。いつもノートを出して書いている人だから、書いている人だとも認識しているだろう。

そして3番目は会員制の場所であるから、私がどこの誰かも把握されている。

 

私の頭の中の思考や心の中の感情を、そのままに写しとったような赤裸々ノートを、その何処かに忘れてきてしまった!

 

 

本当にやりきれない。

 

恥ずかしくて死にたいを通り越して、本当にやりきれない。

 

私の大切な作品の一部や、思考の変遷、意識のカケラ、気持ちや思い、暮らしの足跡。

 

 

 

ノートの忘れ物があったら、絶対めくるでしょ。めくるよね。

 

 

探しに行く気にも取りに行く気にもなれない。

 

 

ノートも惜しいが、もう恥ずかしすぎて、あの場所へ行く気にもなれないので、馴染みの書く場所を失ってしまうことも、悲しい。

 

なんでだよ!

 

 

パソコンで文字を書くことも多いが、私はやっぱり紙と鉛筆(正確にはシャーペン)

 

パソコンだと書いている気になれない。書くものも自然とライトになる。このブログなどもそうだ。

 

ノートに書くと、そのノートを誰かに読まれるのではないかという不安は当然ながらあるものだが、そんなことに怯えているようでは、物書きになどなれないだろう。

死んだ後に大量のノートが見つかったところで、私自身は知らぬ存ぜぬでいいのではと思ってきた。

 

どんどんと増えていって、本よりも増えそうであるし、さすがに過去のノートを全部手元に置いておくのもどうか。悩んだりもして、大事な部分だけを抜き書きして整理しようかと思ったことはある。だが、そんな時間があれば、今思いついたこと、これからのことを書く時間に当てたほうがいいだろうとも。

 

私の大切なノートが無くなって辛い。

 

絶対に読まれてしまっているだろうから恥ずかしい。

 

書く場所も無くなって悲しい。

 

書くことは私にとって、とても大切な行為なのに、こんなんでは、なんか書くこと自体にも、気が乗らない感じ。

 

ノート派はやめて、全てPCに書けば、今後はこんなことにはならない。

 

しかし、やっぱりこうして書いていて、本当には書いている気にはならない。

 

困ったものだ。

 

 

 

ダ・ヴィンチのように鏡文字でも発明したほうがいいのか。

 

否、そんな時間があれば、やっぱり私は書いていたいと思うのだ。