わ・た・く・し

妄想と虚構の狭間。

ときには憂鬱をふりまいて

大人になると、どうしたって対人関係には気を遣う。

こんな私でもそうなのだから、現実世界で常道を生きている常識人なら尚更のことと思う。

思う存分、憂鬱をふりまける関係がいいのだけれど、そんな茶番に四六時中付き合える男などいない。

ある程度、と割り切った関係では、やはりつまらない。いつまで経っても、私の「ほんとう」を知らずに、私を知っていると思う男たち。私の一部分だけを知っていて、私の全てを愛していると思い込んでいる男たち。私は所詮彼らのパートタイムの愛人のようなもの。

それでも、私の一部でも愛していると言うのなら、悪い関係ではない。いつか私が死んだら、男たちは私の遺影の前で、それぞれに違う私について語りだすだろう。

まるで、違う女を愛した男たちが集うように、チグハグな女神の断片を語りながら、私の弔いをすればいいと思う。

 

 

 

 

対外的なやり取りは最小限にする日々を送っているけれど、それでも日に2〜3人にLINEすることもある。要件はそれぞれで、たいした用事でもなかったりだが、朝起きて、送ったLINEに誰1人、返事が来ていない、というやりきれない事象が発生する。

こういうことは珍しいことであって、たまたまのたまたま。

それぞれの暮らしのリズム、それぞれの気分やタイミング、それぞれの駆け引き、いろんなことがないまぜになっての現実。

けれど、そうした現象が、何か、特別な意味を持っているかのように、私に囁きかけようとする。

 

 

 

 

愛は、体当たりでなければつまらない。

 

性癖の問題。

 

 

 

 

愛は、本気で差し出されなければつまらない。

 

フェティシズムの問題。

 

 

 

 

寒さが増して、いよいよやりきれない。

愛を、いろんな愛を味わう。

愛を、いろんな愛を吟味する。

愛のカタチは驚くほどにサマザマで、私はそのたんびに、私の世界を一新する。

愛の感触は、驚くほどにサマザマで、私はそのたんびに、私の感覚を一新する。

 

 

日々更新されゆく世界。

今日には今日のふれあいがある。

今には今の官能がある。

 

けれど、一掃された過去の残骸たちも、どれひとつ取りこぼされることはなく、私の足元でいろとりどりの枯れ葉のように降り積もり、いずれ肥やしとなり、滋養となり、私自身に取り込まれる。過ぎ去った愛という陳腐な響きを纏いながら。

 

 

 

 

YouTubeのチャット機能がうざい。

デフォルトで非表示にする方法はあるの?ないの?

不要な情報が多すぎる。ゴミか、ゴミだ。5353。

私はテレビも見ない、新聞も読まない。もちろんネットニュースも。

先日尋ねてきた友人が、今の首相は岸田さんというのだと教えてくれた。

で?岸田さんはアタシに何をしてくれるの??

 

 

 

 

情報の断捨離。情報の断捨離。どうでもいいことからは切り離されたい。

私にとって意味のある大切なものは。どこ?

 

 

 

 

処世術というものはヒトを幸福にしているのだろうか?

処世術というものは浮世を平穏にしているのだろうか?

私の感覚だけに語らせるなら、そんなことは全くもって見当違い。

処世術で飯を喰う。そういう生き方を私はしたくないし。

でも、最近は、優しさという名のCommunicationに、いくらか振り回されすぎているかもしれない。

 

 

 

 

 

易の師匠が、私に寝首をかかれるのでは、と恐れていると言う。

 

まぁ!

 

 

 

言葉も出ません。

 

どんだけケッタイな妄想に生きているんだか。

 

オシアワセね。

 

 

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

 

 

私の憂鬱の内側に居座る男はいないだろう。

そんな男がいたところで、私は彼を虐めて虐めて虐め抜くだろう。

男のココロの皮膚に爪を立て、皮をひん剥いて、どうして私をひとりにしたのかと責め立てて、許さないだろう。

 

 

こんな寒い夜に、ひとり寝なんて。

 

許せない。

 

 

 

 

俺を虐めてくれと真顔で懇願する男もいるけれど。

 

そんなこと、望まれたら、しない。

 

望まれることをせずに、望まれないことをしてやりたい。

 

 

 

それは、愛でなく、フェティシズムの問題。

 

 

 

私は仏なみに優しい女だけれど、私を不機嫌にする男に、二度見せる顔はない。

 

 

 

だから、どうぞ、一緒にいられるうちに存分にオシアワセを楽しんで♪

 

私の園

ここ数日、蝶を立て続けに見て、飛ぶものへと思いを馳せていた。よく見回せば、空を浮遊する生き物は日常の景色の中に意外と多く潜んでいる。
散歩中に少女が犬に引きずられながら、無茶振りする犬を嗜めていた。その様子のあまりのいじらしさに、私も一緒に犬の背を撫で、おとなしくさせてやった。昔犬を飼っていたことがあるが、犬の毛に触れるのは久しぶりだった。その毛ざわりに、私の犬との違いを感じて、彼(犬)のことを思い出していた。


私は以前、田舎に蟄居して小説を書いて暮らしたいと言っていたが、今は概ねそのような生活になっている。いくらか奇妙な歪みはあっても、願っていたとおりになっている。ある時は、金があったら宮城まり子のように、どこかに大きな土地でも買って、ヘンリー・ダーガーやアドルフ・ヴェルフリの如き輩を集めて好きなことをさせ、私の芝居などをさせたいと思っていた。
私の園には、たくさんの樹を植え花を植え、シュヴァルのような男に館を建てさせればいい。門から館へと続く道筋にも、たくさんの作品を飾ろう。
私の作品もそこに飾ればいい。

 

 

ジャン・コクトーは書いた。

   僕は、僕みたいな嫌われ者の学校を作りたいと思う。

   其処で僕は教えるつもりだ。

   世界の門戸を悉く自分に向かって閉めさせるには

   どんな態度を取るべきかを。

 



なかなか面白いではないか。


意識の赴くままに遠回りする、あてのない散歩。私の園への夢想は続く。

 

 

 


 
今月は父の命日があった。ひとり、父を想って香をあげた。そんなことを父が望んでいるのかどうだか知らない。ただ、私には墓守の星があるから、ひとり娘の役割みたいなものを果たしている。12月とは思えないほど暖かな日だった。父が死んだ日には、珍しく東京では12月に大雪が降ったと聞く。時が過ぎ、時代が変わり、すべてが忘れ去られていくように、季節も違う表情を見せる。

 

お父さん、私はあなたの遺産を管理して、墓守をし、子を育て、人としてこの地上で、ひとりで、自分の筆で書いたものを味わって生きているよ。文章は、あなたよりも上手かもしれない。

 

 

 

 

先々月に、とある緑化推進運動にわずかばかりの寄付をした。すっかり忘れていたのだが、数日前に、実施団体からのお礼状と粗品が届いた。その紙さえも木からできているというのに、寄付者の中にこんな礼状を喜ぶ者がいるのだろうか。
そんなことにはビタ一文使わずに、1円でも多くを、希みの樹々や草花に変えて欲しい。

 

 

 

そう、私の園には、優秀な庭師も必要だ。
私は天と星と樹々と小鳥と話すから
天と星と樹々と小鳥を愛する男がいいだろう。

 

早々と計画を練って、私の園を豊かに実らせよ。

精霊たちがこぞって、私の元に集うだろう。

 

 

 

 

恐ろしいほどの飽き性ゆえ、本宅の他に別宅が2ヶ所ぐらいは必要。
愛人も10人ぐらいは必要。
お抱えのシェフはフレンチの匠で。
人に話すとみなが、戯言を言っていると思うのだが、本気にした者だけが、私の園への道を知る。

 

天界の門はすぐそこに。

 

 

 

 

 

抑圧された運命の中で、私にできることは何か。

 

がんじがらめにされた現実の中で、男たちの愛撫が、時折私に夢見を与えた。

 

この肉体を持って、地上にいることの喜びを、もっともっと味わえばよいのだ。

 

五感への妥協は、死に等しい。

 

愛というかりそめの言葉なんぞに頼らず、ここで何かを共に味わうことができるとするなら、それ以上の至福はあるまい。

 

 

 

 

 

今年は本当に、いろいろなことがあり過ぎて疲れた。それでも、書くことが、私にとって最も大切なことであるという気持ちは、一段と強くなった。

来年はさらに、自分の表現の領域を広げていければと思う。

 

 

 

年末に、身の回りを整理した。使わないもの、使わないアプリ。ミニマムに暮らしながら、本当に必要なものだけを残したい。

捨てるべきもののはずが、いまだ手元に残っている父の原稿。いよいよ捨てようとしたら、ある人が訪ねてきて、私を父の死んだ場所へと連れて行った。まだ、捨てるべき時ではないのか。今年もまた、この遺産を持ち越しながら、時を跨ぐ。傍に、父の気配を感じながら。

 

 

 

生きていることをしみじみと味わう日々。冬の寒さも、空腹も、空の青さも、鳥の囀りも。枯れゆく木々も、夜のしじまの星々も、あるがままに地上を見下ろしている。

私も、あるがままに世界を見て、胸の鼓動がその時を刻むのを終えるまで、ただここでじっと、ものを書いていよう。

 

 

 

 

創造性という一本の線

日蝕、月蝕にはいつも思ってもみない方向に運命が動かされる。

私はしばらく寝込んでいた。
最近は人を遠ざけて沈み込んでいることが多かったが、それでもつながりを回復しようという人の動きがあって、気持ちが和らいだ。私は愛されているのだと思った。

学生時代の友人とも会うことになった。学校を卒業して以来だから、ウン10年ぶり。
彼女のメールの中に、眩しかった私の学生時代、大学を闊歩していた私のことが書いてあって、微笑ましく思った。まだあの頃の私をそのままに覚えてくれている人がいるのだ。若い私に怖いものはなかったかもしれない。ただただ未来が眩しくて、その光に照らされ私自身も輝いていただろう。たくさんの人に友達になりたいと言われたし、それ以上に私はいつだって、みんなのことを祈っていた。本当に他者愛の人だった。

私が人生の節目節目で、必ず自分の道を違えてきたことには理由がある。でもその理由のほとんどを人には語らずに生きてきた。語れない状況もあったし、その意味を理解する人にこそ語りたいという思いもあった。
抑圧されてきた子供時代の問題もあったし、父の問題もあった。
人生の節目節目で、必ず自分の道を違えてきたのは、子供時代の自分自身につながり直したいからであったし、父とのつながりを回復したいからでもあった。それほど私にとって、父は重要な人だった。
そんなことの一端を私はきっと語りたいのだ。だからこうして意味不明なブログを書いているのだろう。

自分の人生を語った時、たいていひどいことを言われてきた。
小説にしても盛り込みすぎ。芝居がかってる。など。
もっとひどいことも言われてきた。ずいぶんな仕打ちだと思った。
この世界に癒し合うことはないのか、と思った。
私の地獄のような幻想が、こうした人の言動を引き寄せているのか。
そんなわけがあるかい。
素直に純粋に同情されたり、私のために泣いてくれる人がほしかった。


どれほどこうした悲しみを綴れば、人は癒されるのだろう。
多分こんなことでは癒されないのだろう。
だから、新しい一歩を踏み出してみることにした。
ひとりで。ひとりだけど。

本当の苦しみを語ってみたいと思う。



こうして書いているほど、私は根暗ではない。
でも、こうして書いているように私は根暗だ。
だから書いたものは私にとっては、人が思っている以上に、大切なものである。

私の父はアーティストであって、私もアーティストであって、私の息子もアーティストだ。ここに創造性という一本の道ができる。

そうありたいし、そうあってほしい。


表現は自由だし、表現は偉大だ。

私は何者にもなれるし、世界は如何様にも作り変えられる。

アーティストは創造主であって、現実の奴隷ではない。

私たちは何者にもなれるし、世界は如何様にも作り変えられる。

アーティストは創造主であって、感情の奴隷ではない。

あなたは何者にもなれるし、世界は如何様にも作り変えられる。



しかし、感情を取りこぼしてはいけない。絶対に。

 

 

ありえないこと

 

私はほぼ毎日日記をつけているのだが、創作ノートや研究ノートなど、別々に分けているのが面倒になって、いつからか一冊のノートに全てを書くようになった。

 

夢のお告げ、チャネリング、思いついたアイディア、企画、やりたいこと、詩や小説や戯曲や散文、舞台装置の構造、とりとめのないこと、感情的なこと、エネルギーの状態、今日の予定、何を食べるとか、誰に会ったとか、SEXのことや男のこと、その日の天気、勉強したこと、気になっていること、過去のトラウマ、本や映画の感想、旅行の計画、哲学的考察、今後の仕事の展望、買いものリスト、お金の計算、絵や落書きも、なんでも書いていた。レオナルド・ダ・ヴィンチの如く。

 

家で書くだけではなく、外で書くこともあるから、数冊のノートを持って出かけることも多い。いくつかのノートに断片的に書いてあるものなどを、一つの作品として推敲する場合もあるから、直近の3冊くらいは携帯することがあるのだ。

 

今日、なんと、そのうちの1冊が紛失していることに気がついた!!

 

私は占術の研究もしているのであるが、最近いろいろ考えることもあって、あらためて自分の命式を深く見直し、いろいろな角度から自分を分析した。複数の占術を組み合わせて、かなり高度に読み解いてみた。そのノートがないのである。自分自身についての分析もだが、いつものように阿保みたいに、いろいろなことが赤裸々に、惜しげもなく書いてある。そして、今後の展望の一つとして、自分の露出について、どんな形を取ろうかと、通り名を変えようかとか、いくつか名前の案も出していた。

自分の名前、そこから少しもじってこんな名前、否、昔のペンネームが良かったか、昔の占術師時代の名はどうか、昔の地下アイドル時代の名前ならどうか、それともこんなのはどうだろう、など。ツラツラと書き出してある。

そんなノートをどこかに忘れてきてしまったのだ!!

 

外で書く場所といえば3カ所しかない。うち2カ所は私がどこの誰某さんと、素性を知っているわけではないし、個人的な関係などないが、定期的に行っているから、私は馴染みの人である。私を私と認識している。いつもノートを出して書いている人だから、書いている人だとも認識しているだろう。

そして3番目は会員制の場所であるから、私がどこの誰かも把握されている。

 

私の頭の中の思考や心の中の感情を、そのままに写しとったような赤裸々ノートを、その何処かに忘れてきてしまった!

 

 

本当にやりきれない。

 

恥ずかしくて死にたいを通り越して、本当にやりきれない。

 

私の大切な作品の一部や、思考の変遷、意識のカケラ、気持ちや思い、暮らしの足跡。

 

 

 

ノートの忘れ物があったら、絶対めくるでしょ。めくるよね。

 

 

探しに行く気にも取りに行く気にもなれない。

 

 

ノートも惜しいが、もう恥ずかしすぎて、あの場所へ行く気にもなれないので、馴染みの書く場所を失ってしまうことも、悲しい。

 

なんでだよ!

 

 

パソコンで文字を書くことも多いが、私はやっぱり紙と鉛筆(正確にはシャーペン)

 

パソコンだと書いている気になれない。書くものも自然とライトになる。このブログなどもそうだ。

 

ノートに書くと、そのノートを誰かに読まれるのではないかという不安は当然ながらあるものだが、そんなことに怯えているようでは、物書きになどなれないだろう。

死んだ後に大量のノートが見つかったところで、私自身は知らぬ存ぜぬでいいのではと思ってきた。

 

どんどんと増えていって、本よりも増えそうであるし、さすがに過去のノートを全部手元に置いておくのもどうか。悩んだりもして、大事な部分だけを抜き書きして整理しようかと思ったことはある。だが、そんな時間があれば、今思いついたこと、これからのことを書く時間に当てたほうがいいだろうとも。

 

私の大切なノートが無くなって辛い。

 

絶対に読まれてしまっているだろうから恥ずかしい。

 

書く場所も無くなって悲しい。

 

書くことは私にとって、とても大切な行為なのに、こんなんでは、なんか書くこと自体にも、気が乗らない感じ。

 

ノート派はやめて、全てPCに書けば、今後はこんなことにはならない。

 

しかし、やっぱりこうして書いていて、本当には書いている気にはならない。

 

困ったものだ。

 

 

 

ダ・ヴィンチのように鏡文字でも発明したほうがいいのか。

 

否、そんな時間があれば、やっぱり私は書いていたいと思うのだ。

 

 

 

2022年7月前半の戯言

 

暑さと心の呻きと曲芸飛行とその他諸々で、感電しまくり。
スライダー・電気特異体質の私は、CDプレイヤーとドライヤーをぶっ壊し。SONYも駄目ねぇ、と呆れるわけである。
ネットも不具合、PC、スマホも...。身から出た嵐。


見つけてほしくて、こんなことをしたんだ。
私の中の虐げられ続けてきた、小さな小さな私の声。
発してあげることができなかった。
言わせてあげることができなかった。
私自身の尊厳を、取り戻してあげることができなかった。
私はまだあなたのために闘えていない。
私はまだあなたのために、立ち上がっていない。
誰かを守るため、誰かを悲しませないために、誰かを幸せでいつづけさせるために、なんで、あの時の私は、いまだにずっと同じ苦しみを抱えて、闇の奥、ひとり泣いていなければならないの。


自分のことなのに、自分でどうにもならなくて、赤子のように泣いていた。


そのまま泣き疲れて眠ったら、トキオからの着信で目が覚めた。片手には食べかけのフランスパン。ああ夢か。という夢を見た。




甘え、わがまま、無茶振り、奇態。
喜ぶ男の顔はいじらしいけど、ありがとうの数だけ私の実感は削がれていく。だから、言葉にしないことの重みを感じてくれる男だけでいい。
忘れさせてほしいことがあるんだ。私の五感はジャックされ、エネルギーの奔流がうねるようにスパークする。ほら、龍が、駆け抜けていくよ。
天までいったら、ありがとうは本音で言える。あの扉くぐって、星雲が見えたよ☆”
本当に感謝しかないんだ。
無邪気な子どものように、痴態の数だけ、愛も深まる。


わかってほしいことがあるんだ。
言えないことがあるんだ。だから癒えないんだ。
涙の量だけ、愛も深まる。そんな神話を私は描こう。





ドライヤーは買い換えた。
大風量。抗菌&マイナスイオンでひゅーひゅーである。





一昨日、雨の中本屋へ行ったら、店先の傘立てに置いていた傘を盗まれた。
驚きはしたたが、妙な予感みたいなものもあって、怒りは湧かなかった。もうそんなことさえどうでもいいほど、人間というものに呆れているのかもしれなかった。
仕方がないので、ただ雨の中、雨雲が動いていくのだけをじっと眺めていた。
私の横におじさんが一人佇んでいた。彼も雨の上がるのを待っているのか。否、彼は迎えの車を待っているのかもしれない。駅に向かって、もう一本の傘を持ちながら誰かの迎えに来ている人。孫のお迎えにきたおばぁちゃん。傘が無くて、駅前で買って帰る人。私の傘も、そんな誰かに盗まれたのだ。家に帰れば傘は沢山あるから、やはり買う気にはなれなかった。

それでも、こんなふうにただ雲の流れをぼんやりと眺めるのはいつぶりだろう。
胸いっぱいに吸い込む雨の匂い。
雨雲の隙間に光が差し込んで、隣のおじさんは駆け出していった。
私もしばらくして、家路を足早に帰った。



傘立てに傘を置く瞬間に、私のイメージが拾った情報に、この傘が盗まれるという予感があった。
前に、美容室でバックを預けたら、会計の際にお札が抜かれていることに気付いた時と同じ感覚だ。あの時も預ける時に不穏さを感じていた。

ぼんやりしているとこうした虫の知らせのような勘はいつも以上に働くのであるが、そもそもぼーっとしている時なので、それに対する危険回避も手薄になってしまい、意味がない。

職業的なサイキックは、こうした能力をきちんと強化する訓練を日々自分に課すが、私はめんどくさいのでスルーである。





不本意なことに不本意なことが重なる。
感情を真っ直ぐにぶつけることができない。絡まって歪曲した銅線のように、私の感情は捻れている。その捻れを解こうとすれば、銅線の基盤から根元が剥がれそうになるのが見える。
どちらが危険なのか。
Y字路に立ち、どちらも沼に続くなら、どちらへも往かずに、そこで立ち留まるという選択も。




答えの出ない問題に自分なりに区切りをつけなければと思った。
いつまでも泣いているのは私の自由。でも、この長雨を誰もが疎ましく思うように、私自身も疎ましがられるのは嫌だ。

そうして、いつもどおり、大人の自分で子供の自分をまた黙らせることにしたのに。芝居じみた幕引きさえ私には与えられないようだ。軽はずみなネタばらし。そんなお芝居、もう観る気にもなれない。



何かを言語化すると、そのナニカの肝心な核心は失われていって、周辺部分だけが陳腐な概念として成形される。物書きは、時にその絶望や無力感と闘っている。無意味さのために意味をつくり出すという茶番。


書くことは自分の感情を切り刻む行為でもある。
書いたものを、繰り返し眺めては味わい、味わっては眺め、自分が見えなくなる。
書いているのは私なのか、書かれているのも私なのか。多分違う。

背景は私なのか。前景は私なのか。どれも違う。否、背景が私か?


心から出る言葉、感動から出る言葉、感情が体に連動したリアルな実のある言葉を発したい。
自分のために。
自分のために。



愛という名のもとに


無限に流れる時の中で
終わらない問いかけを
たったひとりで続ける人
何が欲しいの?
それは愛?

不思議ね 笑っちゃう
愛なんて
絵に描いた餅よりもたちが悪いもの

愛という名のもとに
屈することのないように

愛という名のもとに
明け渡してしまわぬように

億万の星が煌めくこの宇宙で
あなたであれるのは
たったひとり あなただけ

この稀有な あなたという企てを
諦めないでください
諦めないでください









〜☆”〜☆”〜☆”〜☆”〜☆”〜☆”〜


ずいぶんと遠い昔に書いた詩。「愛」という言葉にまつわるしがらみのようなものについて書いていた頃があった。

愛のようなものや人とのつながりなどが欲しいがために、ほんとうの自分を生きられないことがある。
愛ということでもなしに、社会の尺度や世間の常識といった外側の矮小な理屈のために、自分を諦めてしまうこともある。



 

 



7/7にメッセージをくださった方へ


精神病云々は地上の尺度ですから、あまり気にされないで。
厳しい言い方ですが、苦しみも究極的に言えば、幻想です。
苦しみを存分に味わうも良し、飽きて他のことを味わうも良し、どんなあり方でもいいのです。
私自身も苦しみ(のようなもの)を存分に味わうこともあります。でも、嬉々として、楽しく笑ってもいます。

あなたという存在は、たったひとりの稀有な存在です。
ただ静かに、遠い彼方から自分を俯瞰して。
大切なあなた自身をしっかりと抱きしめて、自分の人生をいかに楽しく生きるのかを考えましょう。

けして自分をダメだなどと思わないでね。
どんなあり方でもいいのです。
悩むのが特技や趣味の人もいます。
人は同じ場所には留まってはいない。
荒れ狂う嵐の中でも、少しづつ自分の道ができてきて、様々な機縁でエネルギーも整っていきます。



私は今のところ、創作活動に専念しており、個人への新規でのご相談はお受けしていないのです。
ご了解くださいね。


いつかお会いできる日もあるかもしれませんので、どうぞお元気にしていてください。



Hitomi

 

 

 

秘教の書

 

パティアは地下に潜って生きている。
文を書き、酒を飲み、そして文を書き、また酒を飲んで生きている。
いつから、と問われればいつからだろう。
世間に合わせたような文章は到底書けないから、彼女は自分の書きたいものを書く。
それで食べている気になっている。
晴れた日には時折、自分の詩集を持って、大聖堂へ続く通りの際へ出ている。
道往く観光客相手に自分の詩集を売っている。
詩集だけでは商売にならないから、似顔絵を書いている。
通りすがりの異人たちは、ほとんど見向きもせずにパティアの前を過ぎていく。
似顔絵と言っても、けして上手くはないから、お愛想程度のものである。
似顔絵でも商売にならないから、パティアはマジックも見せている。
台の上に並べた不思議な小道具が魔術の道具のように見えるらしい。
信心深い人は見向きもせずに通り過ぎていく。
それでも日に幾人かは足を止めてパティアのマジックに見入る。
秘教の魔術だとでも思っているらしい。
傍の詩集を手にとって、眺めるものもいる。
パティアの詩文やとりとめのない落書きを、秘儀の書とでも思うらしい。
片言の英語で話しかけられ、片言の英語で応える。
マジックに魅入られて、その本が売れる。
パティアは詩を書いて生きている。
そして詩人になったつもりでいる。