ここ数日、蝶を立て続けに見て、飛ぶものへと思いを馳せていた。よく見回せば、空を浮遊する生き物は日常の景色の中に意外と多く潜んでいる。
散歩中に少女が犬に引きずられながら、無茶振りする犬を嗜めていた。その様子のあまりのいじらしさに、私も一緒に犬の背を撫で、おとなしくさせてやった。昔犬を飼っていたことがあるが、犬の毛に触れるのは久しぶりだった。その毛ざわりに、私の犬との違いを感じて、彼(犬)のことを思い出していた。
私は以前、田舎に蟄居して小説を書いて暮らしたいと言っていたが、今は概ねそのような生活になっている。いくらか奇妙な歪みはあっても、願っていたとおりになっている。ある時は、金があったら宮城まり子のように、どこかに大きな土地でも買って、ヘンリー・ダーガーやアドルフ・ヴェルフリの如き輩を集めて好きなことをさせ、私の芝居などをさせたいと思っていた。
私の園には、たくさんの樹を植え花を植え、シュヴァルのような男に館を建てさせればいい。門から館へと続く道筋にも、たくさんの作品を飾ろう。
私の作品もそこに飾ればいい。
ジャン・コクトーは書いた。
僕は、僕みたいな嫌われ者の学校を作りたいと思う。
其処で僕は教えるつもりだ。
世界の門戸を悉く自分に向かって閉めさせるには
どんな態度を取るべきかを。
なかなか面白いではないか。
意識の赴くままに遠回りする、あてのない散歩。私の園への夢想は続く。
今月は父の命日があった。ひとり、父を想って香をあげた。そんなことを父が望んでいるのかどうだか知らない。ただ、私には墓守の星があるから、ひとり娘の役割みたいなものを果たしている。12月とは思えないほど暖かな日だった。父が死んだ日には、珍しく東京では12月に大雪が降ったと聞く。時が過ぎ、時代が変わり、すべてが忘れ去られていくように、季節も違う表情を見せる。
お父さん、私はあなたの遺産を管理して、墓守をし、子を育て、人としてこの地上で、ひとりで、自分の筆で書いたものを味わって生きているよ。文章は、あなたよりも上手かもしれない。
先々月に、とある緑化推進運動にわずかばかりの寄付をした。すっかり忘れていたのだが、数日前に、実施団体からのお礼状と粗品が届いた。その紙さえも木からできているというのに、寄付者の中にこんな礼状を喜ぶ者がいるのだろうか。
そんなことにはビタ一文使わずに、1円でも多くを、希みの樹々や草花に変えて欲しい。
そう、私の園には、優秀な庭師も必要だ。
私は天と星と樹々と小鳥と話すから
天と星と樹々と小鳥を愛する男がいいだろう。
早々と計画を練って、私の園を豊かに実らせよ。
精霊たちがこぞって、私の元に集うだろう。
恐ろしいほどの飽き性ゆえ、本宅の他に別宅が2ヶ所ぐらいは必要。
愛人も10人ぐらいは必要。
お抱えのシェフはフレンチの匠で。
人に話すとみなが、戯言を言っていると思うのだが、本気にした者だけが、私の園への道を知る。
天界の門はすぐそこに。
抑圧された運命の中で、私にできることは何か。
がんじがらめにされた現実の中で、男たちの愛撫が、時折私に夢見を与えた。
この肉体を持って、地上にいることの喜びを、もっともっと味わえばよいのだ。
五感への妥協は、死に等しい。
愛というかりそめの言葉なんぞに頼らず、ここで何かを共に味わうことができるとするなら、それ以上の至福はあるまい。
今年は本当に、いろいろなことがあり過ぎて疲れた。それでも、書くことが、私にとって最も大切なことであるという気持ちは、一段と強くなった。
来年はさらに、自分の表現の領域を広げていければと思う。
年末に、身の回りを整理した。使わないもの、使わないアプリ。ミニマムに暮らしながら、本当に必要なものだけを残したい。
捨てるべきもののはずが、いまだ手元に残っている父の原稿。いよいよ捨てようとしたら、ある人が訪ねてきて、私を父の死んだ場所へと連れて行った。まだ、捨てるべき時ではないのか。今年もまた、この遺産を持ち越しながら、時を跨ぐ。傍に、父の気配を感じながら。
生きていることをしみじみと味わう日々。冬の寒さも、空腹も、空の青さも、鳥の囀りも。枯れゆく木々も、夜のしじまの星々も、あるがままに地上を見下ろしている。
私も、あるがままに世界を見て、胸の鼓動がその時を刻むのを終えるまで、ただここでじっと、ものを書いていよう。